4人のメンバーによる、舞台右側から鮮やかなピンクの衣装を身にまとった女性が出て来た。夏川りみ
バンドメンバーが出て来た。静かに席に着き楽器を構える。そしてすぐにあの独特のリズムを持った沖縄の音楽が奏でられる。と言っても私は沖縄には行ったことが無く、「沖縄音楽」っぽいと特定の音楽にレイベルを付けることが出来るが、実際の沖縄がどんな所か、そして昔ながらの沖縄音楽が何たるかを分かっていない。私が日本人と分かると「僕たちは日本が大好きなんだよ。沖縄に行ったよ。」と言われることが多く、その度に、「あぁ、行ってみたい。やはり日本人として一度は行かなくちゃ。」と思うのだが、小さな日本であるのに、その中にはあまりにも魅力的な場所が多過ぎ、しかも日本にいる時間が日本人として極端に短い私達はなかなか沖縄までたどり着けないでいる。
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あの派手な衣装も沖縄民族衣装なのだろうか。普通の人が来たらチンドン屋のように思われてしまいそうなあの衣装も、可愛らしい丸顔のはっきりとした顔立ちの彼女にとてもしっくりあっていて、自分も着てみたいとまで思えてしまう。薄い顔の自分が来たら、それこそチンドン屋になるのだろう。その彼女が身体をゆらりゆらりと左右に揺らしマイクに一歩近づいた。もうすぐあの声が耳に入る。
見たこともない沖縄の水の色のように澄んだ声、細くて高くて心地よく。海の波と言うより、静かな水に残る波紋のように、徐々に心に浸透する声は耳を傾けなくても前のめりにならなくても、背もたれに背を付けたまま体で聴くことが出来る。彼女の身振り手振りは声同様柔らかく、手の動きも音のように心に入って来る。一曲目が終わった。歌が終わると小さな舞台なのに「アメリカ」の大きさに緊張しているのか、はにかむように「サンキュー」と彼女は言った。そんな可愛らしさを見せる彼女は数年前に子供を産み、今は3歳の坊やの母だと言う。そして彼女が二曲目に選んだ曲は日本でも有名であろう『童神』だった。
知っていたメロディだが歌詞をじっくり聴いたのは初めてだった。歌詞を聴き、彼女が赤子を抱きあやす手の動き、視線の柔らかさを見て、私は涙をこらえた。流れるような優しい動き、声。それを胸に深く感じ涙をこらえているの私が日本人だからだろうか。赤子が抱かれている様子を想像し、母である彼女の姿を見、歌を聴きながら私はふと自分の母であるママを思った。私がこうして今、心で歌を感じることが出来るのはママがそう育ててくれたからなのかもしれない。
毎日の散歩で見上げる青空に感動し、写真を撮っていると「何撮ってるの?」と知らない人に尋ねられる。あたかも「一体そこに何があるというのか?」と言うように。雪が溶けやっと芽を出した雑草の黄緑色を嬉しく眺めることが出来るのも、この世の中は美しいものでなんて溢れているのだろうと事あるごとに「うわぁ。」と思わず声に出してしまうのも、ママがそう感じる心に育ててくれたからなのかもしれない。ある人が感動するものを見ても感動しないかもしれないが、そのある人が感動しないものに美しさや素晴らしさを感じることが出来る心を持たせてくれたことに急に感謝したくなった。
今この世界に同じ時間を共有し、同じ空気を吸っている何億という人それぞれ感じるものは違うのだろうが、この歌を聴いて、あの仕草を見て、感じることが出来た自分が好きだった。